便利なもの、不便に感じるようになったもの。
なーちゃんと一緒に暮らして、79日目である。
興味がないことに対して後回しにしがちな僕は、先週ようやく転居届を役所に出しに行った。そして、今日は、運転免許証の住所変更に行った。
先日も書いたように、新しい生活というのは、脱スマホだけでなく、いろいろとすることもあり、考えることもある。今までの僕は、基本的にどこかに出かける時は、車を運転していたが、今では、公共交通機関を使っている。ということで、免許証の住所変更も公共交通機関を使うということである。
住んでいるところは、田舎ではなく、それなりの都市だ。だから、インフラは整っている、といえる。ただ、だからこそ、ここでは、地下鉄の駅から遠い、もしくは、バスを使う、ということは、結構面倒臭いことに感じる。こうして書いているということは、もちろん、今日は、バスを使った。便利な交通手段のはずが、他と比べてしまうから、面倒臭い手段にみえる。それが、なかなか面白い思考だと思ったりする。
最寄りの駅から10分未満で試験場に着くのだが、そこまでバスが行ってくれたらいいのに、となーちゃんと会話する。確かにそうだ、と思う。その反面、少し前だったら(数十年前というのが少し前なのかはわからないが)、何も思うことなく、そうして歩くことが普通なことだと思っていたような気がする。
便利というのは、慣れてくると、不便とか面倒とか感じることを増やしていることなのだろうか。
なかなか面白いことだ。
スマホのことも、そうだったが、便利なものが溢れている。
溢れすぎている、といえるのかもしれない。
僕は、便利なものは使ったほうが良いと思っている。
その便利なものを使えないようにするのはストレスだとさえ思った。
でも、その便利なものは、今までのことを煩わしいと思ってしまう要因になりかねない。不思議なものだね。
便利になればなるほど、考えるのをやめている時間を増やして、自分の時間をなくしているように思える。
でも、自分の時間をなくしているという自覚を与えないようにしているようだ。
頭が良い人たちが、昔よりも身近にコントロールしている、ということだろうか。
面白いね。
便利と不便な話をしてしまったが、
住所変更というのも、なかなか興味深いことだった。
これでいいの? 的なことを感じるのが面白い。
アナログの面白さなのかもしれない。
デジタルと違った、味がある、
といえば、ポジティブなのだろうか。
それとも、物体としてのモノが古めかしく見えるのかもしれない。
こうして僕が感じるということは、
おそらく、そんなに遠くない未来に、今日していたことは、本当に面倒くさく前時代的なことだ、と言われかねないことになるのかもしれないね。