生きるとは。

選べない人生だと思っていた。

やらなきゃいけない。

そうしなきゃいけない。

自分で決められないから、決めなくていいから、これは仕方ないんだって、言い聞かせた。

きっと、ひーくんと似ている。

小さい頃から、厳しく育てられたと思う。

両親に、こうじゃなきゃいけないと色々言われてきた。

母は、私にピアニストになって欲しかった。母の夢がピアニストだったが、お家の事情で無理だったそうだ。だから、私は、ずっとピアノをやっていた。辛くて泣くと、「じゃあ、やめていいよ。」と、言われて、愛想をつかせられるのが怖くて頑張った。

勉強や進学も同様だった。

その他マナーも完璧だったし、幼稚園、小学校くらいから敬語を使っていた。

何でも完璧を求められては、頑張った。

何でも1番じゃなきゃだめだった。

反抗もしなかった、ちょっとしたとしても、力で押さえつけられてしまう。言われたままの人生を送っていた。良いコで居ないといけなかった。

そんな中、10代の頃、母が末期癌で倒れた。私は、学校を辞めて介護をした。母が病院が嫌だ、おうちに帰りたいと悲しんでいて、そうしたいと思った。

母が亡くなった後、父が多額の借金を作って、餓死しかけたから働きに出た。借金は相続放棄できるとはいえ、父が心配だったし、目の前の生きるための生活費は必要だった。(今は、父が巻き返しているので大丈夫。)

そのまま、本当は家にいて、働きながら今度は祖母の介護をしたり、妹が結婚して子供を授かり、旦那さんがうちの実家に住む形をとっていたことから、色々事情もあり、子育てを私はする生活だったと思う。

本人たちに頼まれていたからだ。

頼られるのは嫌ではなかった。祖母も妹も大好きだから。

だけど、私は自分が、持病とは違う別の病気になり、それが出来ず、後の恩人である年上の女友達、通称おねえさんとの暮らしをすることになった。餓死は免れたものの、24時間ろくに寝ず、付きっきりの介護を何年かして、その後すぐに借金による生活難になって、心身ともに異常をきたした。おねえさんとの生活は、貧しかったけれど、ふたりで頑張って働いて、ふたりでご飯食べて、何するのも楽しかった。でも、おねえさんの親御さんの体調が良くなく、心配だったため、私とおねえさんとの生活は終わりを迎えた。おねえさんには、本当に本当に感謝している。病気の治療の条件が、一旦家族と距離を取ることだったため、1年半近く離れていたものの、いざまた一緒に生活すると、家族はみんな、私が居なくて辛かったと言った。私も病気で辛いんだけれどな。と思いつつも、家を出ることになってしまったんだから、そう言われても仕方ないと思った。

そしてまた、変わらない生活を送る。

自分が何のために生きているか、分からなくなる生活。

幸せってなんだろうね。

自分のために生きるってなんだろう。

たまに、そんなことを私も考える。

自分で選んで、自分の道を進む。

そんなこと、慣れていない。

いつだって、目の前に囚われ、いつだって、先が見えない。

そんな私に、誰かに言われたわけでもなく、自分自身で決めようとしたことがあった。

ひーくんと生きていくこと。

私は、飛び込んだ。自分の幸せへと。

願わくば、ひーくんの幸せもそうでありますようにと。

ひーくんも幸せにしたい。

一緒に幸せになりたい。

ふたりで一緒に生きていきたい。

それが、私の人生で最初で最後のわがまま。

 

               なー。